【コラム】中東危機は企業の意思決定をどう変えるか
2026.06.15 インドネシア ベトナム タイ フィリピン
2026年2月末以降の中東情勢の急変は、原油価格や国際物流の混乱を通じて、ASEAN経済に幅広い影響を及ぼしている。前回のコラムで述べたように、今回の事象の本質は、単なる一過性のショックではなく、資源、物流、金融、さらには物価、消費といった事業環境の前提条件を同時に揺るがしている点にある。
さらに重要なのは、こうした環境変化がマクロ指標にとどまらず、企業の意思決定そのものに変化を迫っている点である。中東危機のような地政学リスクは、もはや「想定外の事象」ではなく、「織り込むべき前提条件」として認識されつつある。ASEANにおいても、事業運営の現場では、こうした前提の変化を踏まえた意思決定が求められている。
第一に注目されるのは、在庫戦略の変化である。これまで多くの製造業は、効率性を重視し、在庫を最小化する「ジャスト・イン・タイム」を前提とした運営を行ってきた。しかし、物流の遅延や不確実性の高まりが常態化する中、在庫の位置付けは変わりつつある。輸送ルートの混乱や遅延が生産全体に波及する状況では、在庫削減は効率性を高める手段であると同時に、供給途絶リスクを高める要因ともなり得る。その結果、コロナ禍以降のサプライチェーン再構築においてもみられるように、在庫を一定程度確保する「ジャスト・イン・ケース」という発想が重視され始めている。すなわち、在庫は単なるコストではなく、不確実性に対する「保険」として再評価されつつある。
第二に、内需向けビジネスを巡る環境変化にも注意が必要である。中東情勢を背景としたエネルギー価格や物流費の上昇、為替変動は、時間差を伴いながらインフレ圧力として家計部門に波及している。ASEAN各国では、実質購買力への影響が徐々に意識され始めている。とりわけ、食料品や生活必需品など価格転嫁が進みやすい分野では、物価上昇が消費マインドに与える影響が無視できなくなりつつある。その結果、内需依存度の高い事業や価格感応度の高い商品・サービスを扱う企業にとっては、表面的な需要の堅調さだけで市場を評価することが難しくなっている。インフレが長期化する局面では、消費の水準そのものよりも、消費構成や支出の優先順位が変化しやすい。これは販売戦略や商品ポートフォリオの前提にも影響を及ぼし得る。こうした変化は短期的には見えにくいものの、情勢が長期化するほど、内需を評価する上で無視できない要素となる。
第三に、「ASEAN=地政学的に安全」という前提の見直しである。ASEANは軍事的当事者ではないものの、エネルギー供給や海上物流の結節点や製造拠点として世界経済と強く結び付いており、局地的な紛争であっても、経済的には影響圏の中に位置している可能性が高い。さらに今回の中東情勢は、リスクが単発ではなく、複合的かつ同時に進行し得ることを改めて示した。このため企業は、複数リスクの重なりを前提としたBCP設計が求められる。また地政学リスクを前提とした経営判断の重要性が一段と高まっていると言える。
以上のように、今回の中東情勢は、ASEAN の成長性そのものを否定するものではないが、企業活動を取り巻く前提条件そのものが変化しつつあることを示す象徴的な事例といえる。今後、不確実性の高い環境下で、変化を前提とした事業戦略やリスク認識を如何に柔軟に更新していけるかが、これまで以上に重要な要素となっていくだろう。
株式会社双日総合研究所
情報調査部
阿部智史